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このたび市木木綿のハギレの量り売りを始めました。市木木綿は熊野市のとなり・御浜町市木で明治時代に始まった木綿織りです。寒村そのものだった市木村の村人たちに仕事を与えたいと、大久保万太郎さんというひとが自ら染織の技術を習得し、村人たちに伝え、最盛期は村中で筬の音が鳴り響いていたとか。その頃の織機は、電気を動力とした機械織りと、手でバッタンバッタン筬を動かす手織りと両方でした。しかし機械織りといえども、手織りの4倍程度のスピードだったので、手織りの風合いが残るしっかりとした生地が評判を呼びました。
また藍染も研究し、細かい絣模様は「市木絣」と呼ばれ、万国博覧会でも上質の品と太鼓判を押させるまでになっていったのです。
ところで木綿って・・・
日本中に普及したのって思いのほか遅いんです。庶民にまで普及したのは江戸時代だそうで。それまで庶民は麻などの素材でそりゃもう寒い思いをしていた。木綿ってあったかいしやわらかいし、虫にも強いし、すごい布だね!と一気に広まったそうです。今じゃ考えられないけれど、昔は布も自家製って珍しくなかったそうですね。80歳代くらいのおばあさんたちは、嫁入り道具が「機織り機」だったとか、お嫁入り後の夜の仕事は機織りか、草鞋編みだったとか、目を細めて話してくれます。私たちの時代だとふつう、布は最初から布の状態で出会うので・・・考えたことがなかったけど! 前職で「市木木綿」の調査をしたときは、目からウロコだったこと、つまり、
布は、農だったんだぁぁ ぁ 。。。
ということ。あたりまえといえばあたりまえだけど・・・
木綿 は 綿の花のあとの実からはじける。そのなかにちゃんと種が入ってる。
絹 は 蚕が生産するけれど、その餌とする桑畑が、昔はどこにでも広がっていた。
麻 は これまた植物の繊維 だし・・・
ほかにもいろいろ、布の素材はあるけれど、 布も農の産物 だったんだ ってことに気づいたら、それまでより余計に、布ってものが愛おしくなりました。
室町時代に日本に入ってきて、以来日本の風土に順応してきた「和綿」。繊維が短いので明治時代に導入された西洋式の紡績機に適さず、いっせいに「和綿」から「洋綿」に切り替えた。そして大量生産の時代へ・・・ 工場が乱立し始めるかわりに、市木木綿だけでなく、地場産業としての日本中の木綿織りが消えていったのです。
でも、和綿のオーガニックコットンが暮らしの中に当たり前に存在していた時代が終わって、まだ100年も経っていません。和綿を絶滅させないよう、和綿をつくっているファームや、和綿の手紬の布を生産している会などがあります。海外のオーガニックコットンの普及だけでなく、(フェアトレードやエコロジーって観点から普及してほしい) 日本の和綿のオーガニックコットンの復活も大事だなぁって思います。洋綿は日本の風土に合わなかったから、結局は輸入に頼らざるを得ないわけで。少しでも和綿が復活したらなぁと・・・。
それにとにかく、やっぱ気持ちいいから!オーガニックコットンは。肌触りが違う。洗えば洗うほどゴワゴワの反対・むしろやわらかくなりますもんねー。
特に和綿の、手紬の布は、「撚り」のかかりかたの関係で、汚れをすごく吸着するらしく、クレンジングを使わずに顔を洗えるっていう「ふらの布」というのをかれこれ1年くらい愛用しています。アトピーっけのある私は、これで肌の負担が減りました。だって、石鹸もシャンプーもクレンジングも使わないようになったので。こういうものを生み出してくれる「ふらのわ会」に感謝。
さて、大量生産の波に押されながらも、市木木綿は細々と野良着・作業着の布を生み出していました。しかし戦後、着物から洋服へと変わると、本家筋の大久保織布ではすこしカラフルな布を織って、洋服を仕立てるようになりました。大正生まれのおじいさんのデザインが斬新で反響を呼び、雑誌に取り上げられ、全国から注文が相次ぐほどに。
市木木綿がカラフルになったということは、藍染をやめ、化学染料で染めた糸に切り替えたということです。伝統工芸ではない、地場産業としての木綿織り。そうやってつないできた。
こうやってつないできた市木の木綿織りは今、向井ふとん店さんが受け継いでいます。伝統工芸ってわけではないし、日本のどこにでもある木綿織りのひとつかもしれない。オーガニックってわけでもない。でも明らかにこの布には、市販のものにはない魅力と、市木でつないできたものが宿っている・・っ と私は声を大にしていいたい。この布をつくっている明治時代の機械は、まるで生きもののようだから。
この木綿織りが続いていることに、感謝。
そうして一片のハギレを手にしてみる。
昔は、なんども繕って布をなおしたんだよね。汚れたら雑巾になって、最後は畑で燃やして「虫除け」にしたらしい。
10g 30円
量り売りです。
向井ふとん店がつくる「おまもり袋」(左)
と
ハギレを編んだ、木綿の縄(右)
ハギレ、えらいしかわいい!
パッチワークや、
ワンポイントにいかがですか?
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メイドイン熊野の衣食住&量り売り 木花堂
http://www.konohana-do.com/
・・・メイドイン熊野を日常の暮らしに、お土産にも。
奥熊野発フリーペーパーKUMANO JOURNAL
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8月17日、熊野大花火大会が終わり、「熊野のお盆」が終わりました。。。そして、今夜気づいた、鈴虫の音。うん。秋がきた・・・
今年の花火は・・・
木花堂のロゴにもなっている八咫烏を、いつも身につけられるように・・ 熊野市在住のシルバークレイ作家・アトリエmiyocoさんにお願いして、コラボレーションで生まれたのがこのネックレス。
詳しくはHPへ 八咫烏チャームネックレス
アトリエmiyocoさんによる、1つ1つハンドメイドの品です。可愛くて私自身、かなりの頻度で普段使いしています♪
今回、このネックレスを、1歳と3歳になる娘さんに将来プレゼントしたいということでご購入いただいたので、上古代折箱店さんの杉の木箱に、向井ふとん店さんが織る市木木綿と、尾鷲ヒノキの鉋屑をつかって、ギフトボックスに納めてみました。ぜんぶメイドイン熊野。折箱も、市木木綿と合わせるととてもCute、そして尾鷲ヒノキのおかげで防虫・防湿にもなるという、思いのほか優れものです♪
大切な娘さんの幸せと健やかな成長を願ってのプレゼントに、この「八咫烏チャームネックレス」を選んでいただいて、本当にウレシイ。お店をするって、こういう喜びがあるんですね。自分自身にとっても、とても励みになりました。ありがとうございます。
※八咫烏(ヤタガラス)は、日本神話に登場する熊野三山の神の使いの、三本足の烏。 神武天皇が東征の際に熊野に上陸したとき、八咫烏の道案内で、太陽を背にして進軍して勝利し、大和の国を治めることになりました。 日本神話において八咫烏は"太陽の化身"と考えられたほか、近世に広く起請文や魔除けに使われた熊野三山が発行する熊野牛王宝印においても、ヤタガラスを描いた烏文字が記されています。 正しい道や勝利への導きの精として、今では日本サッカー協会のエンブレムになっています。
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